木村屋敷(旧三菱財閥の重鎮、木村 久寿弥太が昭和初期に建てた伊豆峰の別邸です。)
2012年05月11日
2012年05月03日
小川 治兵衛
京都の木村衛さんとの話の中で、「植治」の作品と感じている様子が受け取れました。
植治とは、明治から昭和初期に活躍した、「小川治兵衛」のことです。
木村屋敷の作庭者が「植治」の可能性が出てきました。
仰木魯堂は、京都での修行も長く「植治」との付き合いもあったはずです。
皇族のためのものですから、庭園についても最高レベルの庭師に依頼しても不思議ではありません。
もともと魯堂は、一般的に考えられる建築家ではなく、小堀遠州のようなプロデューサー的作家です。
建築物にしても大雑把な図面を描き、あとは見込んだ大工棟梁の腕に任せる手法をとっていました。
それだけに自分の感性をキチット受け止める技量を持つ優秀な建築スタッフを抱えていたのでした。
魯堂は作庭も得意でしたので、よい庭師を持っていたはずですが、しかし、この庭園造りには
より自分の意思を確実に汲み取れる最高の能力を持つ庭師に依頼したことは容易に考えられます。
植治とは、明治から昭和初期に活躍した、「小川治兵衛」のことです。
木村屋敷の作庭者が「植治」の可能性が出てきました。
仰木魯堂は、京都での修行も長く「植治」との付き合いもあったはずです。
皇族のためのものですから、庭園についても最高レベルの庭師に依頼しても不思議ではありません。
もともと魯堂は、一般的に考えられる建築家ではなく、小堀遠州のようなプロデューサー的作家です。
建築物にしても大雑把な図面を描き、あとは見込んだ大工棟梁の腕に任せる手法をとっていました。
それだけに自分の感性をキチット受け止める技量を持つ優秀な建築スタッフを抱えていたのでした。
魯堂は作庭も得意でしたので、よい庭師を持っていたはずですが、しかし、この庭園造りには
より自分の意思を確実に汲み取れる最高の能力を持つ庭師に依頼したことは容易に考えられます。
2012年05月02日
2012年05月02日
2012年05月02日
2012年05月02日
京都 植弥造園 さんと
4月25日から2泊3日で京都へ足を運びました。庭園についての調査のためです。運よく植弥加藤造園の木村衛氏とお会いすることが出来ました。二条城の庭園整備作業中のお忙しいところを抜けだして来てくださいました。
71歳になられる庭園に関する専門家です。3月に、木村屋敷を訪れて下さっていました。
71歳になられる庭園に関する専門家です。3月に、木村屋敷を訪れて下さっていました。
2012年04月23日
2012年04月11日
2012年04月10日
2012年04月04日
2012年03月30日
屋敷について 2012
この屋敷の建築設計者が判って参りました。明治末期から大正・昭和にかけての数奇屋建築に、大きな業績を残した仰木魯堂と思われるのです。書院・数奇屋・茶室の建築、文化財の修復・寺院の門や多宝塔の建立、庭園の作庭などに秀いでた人物です。
40歳位までは、寺にこもり(奈良・京都)禅の修業に精進していたと云われて居ります。特別な建築の学業をした事はなかったようですが、深く茶に精進し、茶人としての目で茶の美意識から割り出された感性での作品を生み出しています。大変奇異な建築作家なのです。利休や遠州に通ずるところが見受けられます。
魯堂の建築の特色の一つは、茶室様式を住宅建築に応用したことが挙げられます。住宅の繁雑な面を茶室様式を持って簡潔なものへと、それまでの建築様式を改めたのです。
それまでの東京では、文化・文政社会に始まった遊びの多い建築物が主流を占めていたのでした。ことさら構えが大きいだけか、技巧をこるだけの生彩の乏しいものばかりでした。
魯堂が数奇屋建築家として世に出るきっかけは、明治44年小田原市郊外の風祭に、石油で財を成した中野氏の別荘を完成させたのが発端でした。その頃、財界人の間で小田原に別荘を建てることが流行して居り、魯堂の建築が大変な評判をとったのでした。
大正2年には、貞明皇太后の大夫を勤めた杉孫七郎の命を受けて、同家の書院と茶室を完成させています。それが縁で杉氏より、三井財閥の大物益田鈍翁を紹介されたのです。鈍翁は、明治以降最大の茶人と云われていた人物です。その鈍翁が茶人としての魯堂に目をかけ、彼の後継者ともいうべき団琢磨や茶のジャーナリスト高橋箏庵といった三井系の茶人を魯堂に引き合わせました。
その後は彼らとの交わりを通じて高橋箏庵より、[魯堂は団家の普請奉行」とあだ名される位に,特に団琢磨とは終生切っても切れない付き合いとなったのでした。2人のお墓は隣り合わせとなっている程です。
魯堂は大正・昭和にかけての数寄者達より信頼され、益田鈍翁を始め原三渓・松永耳庵・高橋箏庵・根津青山等数多くの数寄者たちと深く交遊しています。こういった多くの数寄者たちより親しまれ、なくてはならぬ人物だったようです。
かなり多くの財界人の住宅や別荘・茶室・墓石まで手がけて居りますが、残念ながらほとんどが空襲で失って居ります。残されている作品として、東京護国寺の多宝塔と茶室、箱根強羅の白雲洞田舎家、米国ペンシルバニア州立博物館には高橋箏庵の茶室が移構されています。早稲田大学構内には小倉房造が寄贈した田舎家があります。その他にもお茶室が移築され残されていますが、木村屋敷のような大きな物は存在していません。
*東京広尾にある香林寺には、移築されていない魯堂の茶室が現存しています。
木村屋敷は、彼の最高傑作かもしれません。晩年の65から70歳くらいの間の一番脂の乗り切った時期の作品なのです。
団琢磨が命じて作らせたのです。それも秩父宮様の別荘(茶席)としてのものです。外国の賓客を茶事でもてなす為の、いわば迎賓館です。
魯堂は、大正14年に建設された団琢磨の仙石原(箱根)の別荘の設計を行っています。この建物は、一見西洋館です。外観はハーフテインバーの造作が見られ、木村屋敷と似た感覚です。
アメリカの大財閥モルガン商会(ロスチャイルド家傘下の企業)の総支配人一行をもてなす為に建設したと云われて居ります。戦後は、団琢磨の長男団伊能氏がホテルとしています。現在は取り壊されて、新築され小田急経営の箱根ハイランドホテルとなっています。
当ホテルのロビーには、昔の建物の写真が飾られて居り、団琢磨が魯堂に設計を依頼したことが記されて居ります。
「箱根ハイランドホテル」の呼び物は、団伊能氏がホテル開業時からの伝統のアフタヌーンテイです。団琢磨も「狸山」という雅号を持つ茶人です。子息の伊能氏もかなり茶会に出て居ります。英国式のアフタヌーンテイでもてなしたり、あるいは日本の「茶の湯」をアフタヌーンテイとして、「モルガン商会一行」を、もてなして喜ばれたのではないでしょうか。
秩父宮様は、大正14年5月にロンドンへ留学しています。昭和2年始めに、大正天皇崩御の為急ぎ帰国されておられます。英国留学中、一番の楽しみだったのが、貴族達に週末には彼らの山荘に招待され、アフタヌーンテイを楽しんだ事だった様子です。
宮様も当時は、20代前半でしたが、いずれ天皇の御名代としても諸外国からの賓客のホスト役を務めなければならない時が来る為、山荘の必要性を感じて居られた事と思われます。団琢磨と宮様とはご帰国後のパーテイか何かでお会いし、宮様より相談され、この地に団は山荘(宮様の為の)を作る決意をしたと思います。
団がこの地を選んだのには隠された理由があるのです。団は昭和2年に密かに山一つ越したところにある湯ヶ島の金鉱(持越鉱山)を買収していたのです。その金鉱の隣接地は広大な天領地でした。天領地の払い下げを計算していたのです。それで宮様の為の山荘(迎賓館)の建設を行った事と思うのです。
大正時代から国鉄では、昭和13年を目途に伊豆下田までの鉄道敷設計画をして居り、この鉄道が通れば東京より片道2時間半と言う距離になるのです。また。三島より湯ヶ島までの鉄道建設計画(昭和12年頃まで)もあったようです。湯ヶ島の信用金庫には、そのような資料が残されています。当時でも湯ヶ島から河津のこの地までは、車で小一時間でした。どちらを経由しても風光明媚な伊豆の地を楽しめる道中となります。1日から2日で、日本の美しい山や海の景色を味わえるピクニック的なコースでもあるのです。
なぜ、こんな辺境地を選んだのか?疑問でしたが、謎が解けました。天城山中の湯ヶ島は、良質の温泉場です。落合楼という大旅館がありますが、昭和8年から12年に掛けて建設されています。団琢磨に金鉱を売った鉱山主の足立三敏氏が25万円(当時の金額)を投資したと云われています。どうも木村屋敷の施工を終えた大工さん達が建築に携わっているようです。純和風旅館ですが、立派な建物の中に広い洋風サロンが設けられています。西洋人の来客を意識して建設されています。
この旅館に一泊し、木村屋敷でアフタヌーンテイを楽しみ、その日のうちに東京に戻れます。日本に短期滞在の賓客にとっては、京都に出かけなくても当屋敷で京都の風情を味わい、日本の山・海・里の風景を充分に楽しめる伊豆を巡れるのです。
当屋敷の庭は、京都の東山文化を持ち込んでいる事が解ります。晩秋の紅葉は見事で、訪れる人達は皆「まるで京都に居るようだ。」と言ってくれます。銀閣寺の義政公の茶の井(相君泉)や洗心の滝、そして庭の一番の高台には月見台もあります。月見台からは、竹林を流れ行く月明かりに照らされて輝く「織部焼きの屋根瓦」に銀閣寺の月見台から眺めた「都の夜の帳」を思い浮かべられるのです。
昼間は、高台から辺りを見下ろせば、豊かな田園風景がそこに広がっているのです。その借景は、修学院離宮を髣髴されます。そして正面に見える山並みは、まるで東山三十六峰を移してきたと云いたくなるのです。
庭の斜面には、緩やかに長く伸びた苑路が幾重にも造られて居り、路の両脇には、つつじやさつき・石楠花など初夏を彩る樹木が植え込まれ、美しい花畑を歩けるように作庭されていました。
万葉の歌が思い浮かんできます。
茜さす紫の行き しめ野行き 野守は見ずや 君が袖振る。
額田王の歌です。大海皇子(天武天皇)に送った歌です。
紫に 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 吾恋めやも。
大海皇子の返し歌です。
この庭園は、随所に歌が詠まれているものと感じています。奈良吉野の花園や、険しい吉野山の風情が裏山に迫っているのです。門をくぐると直ぐ目に付く「心字池」も志賀の大わだ(琵琶湖)だと思います。大宮人の舟待つ姿が眼に浮かんでくるのです。
仰木魯堂は桂離宮に強い憧れを持ち続けていたようです。小堀遠州を尊敬していたと思われます。彼は桂離宮を強く意識して、この屋敷を作り上げたと思います。ですから桂離宮と少しかけ離れて、茶の遊びのような(謎解き遊び)要素を加えているものと考えられます。
銀閣寺や修学院離宮を持ち込んでいる事も、しばらくすると見つけ出せます。まずは簡単な謎解き遊びからスタートさせ、そこから次の課題に進ませる仕掛けをしているのです。屋敷全体が、「茶の遊び」を楽しむように工夫が凝らされている物と思われます。勿論庭だけでなく、建物にもそれがいえるものと感じています。
洋風建物の1階の二つの洋間も「お茶室」です。食堂風の部屋は立礼席でしょう。正午の茶(アフタヌーンテイ)を行う為の部屋ですから、昼頃から明るくなるように西側に窓があります。午前中は薄暗く朝食には不向きです。
もう一つの部屋は、サロン風の造作です。茶の湯は長いので、途中「中立ち」と云ってちょっと一服、ひと休みします。そのための部屋だと思います。この部屋からは、テラス伝いに庭に出られます。このテラスも西向きです。普通テラスは、早朝から日当たりの良い東南側に作ります。アフタヌーンテイの為の造作ですから、午後からの日差しを計算しているのです。
宮様のお部屋は、2階の6帖と8帖の和室です。大変地味な感じのする部屋造りですが、柱やなげしは備州桧の最高級品、天井板は、樹齢数百年の杉の柾目板、床柱は京の北山杉の天然絞丸太、建具は木曽桧材等、全て一般には手の届かない材質の物ばかりです。ゆったりした廊下の天井は総網代造り、山荘の趣を持って居ります。簡素な感じに茶室を住居に用いれた魯堂の特色が見受けられます。
8帖が寝室で、6帖が神様を祭るところ、6帖に張り出されてついている2帖間はお着替えの間です。宮様が、茶事の支度の為、前日から一泊するだけの部屋です。簡素な造りになっているのはその為です。廊下を隔てた4帖半の部屋は、宮様の身の回りをお世話する女官(お付き)のものでしょう。
供の者達(茶事のスタッフ)の部屋は、4部屋で全て3帖の和室です。 超一流の茶事の料理人や、茶や生け花の家元クラスの茶人がスタッフですから、もう少し広くてそれなりの部屋つくりをしてよさそうなものですが、やはり禅の修行との考えから来るものと思います。つまり茶は、禅の修業の一つであり、スタッフは禅の修業の大切な「静的な工夫」すなわち座禅を組む場が必要なのです。
3帖間は最も狭い居室です。一人静かに座禅を行う場でもあるわけです。料理を造ったり、生け花をしたり、茶を点服したりする行為を「動的な工夫」と云い、この二つの修行があってこそ可となるのです。スタッフ達が宮様のために精神を統一し「最高の茶事」をするようにと造作されていることがわかります。この屋敷は禅の修業の場でもあるのです。
「五楽荘」と命名されていたのです。
純和風の建物は「式正の茶室」です。10帖間を鎖の間とし、玄関先の6帖間が寄付、続く4.5帖間に炉が切られています。4.5帖間の隣奥側に水屋があり、1,5帖台目畳が敷かれています。そこから5段降りて、長い廊下の一番奥に広い厨房があります。
階段下すぐに「雪隠」を設け、廊下を隔てた向かい側は2帖と3帖の控え室となっています。
10帖間の奥に板張り(寄木造り)の6帖間があります。立礼の間なのか、入側のある縁側からの来客用の寄付なのか?あるいは中立ちでちょっと一服する部屋なのか?それらを兼ねた部屋なのかもしれません。建物の主材は京の北山杉で、柱は「面皮」となっています。寸法は3寸5分位の細い材質のもので揃えています。この茶室を見た、どなたも「すごくシンプルで普通の家の和室のようだ。」と言います。ところが実際は4,5畳間の天井板は屋久杉(神代杉)だったり、全てにおいて最高級品質の木材が使われているのです。それをまったくと云って良い程感じさせないのです。この茶室こそ、小堀遠州が綺麗さびと表現した「古田織部流の茶室」ではないかと言う気がいたします。
魯堂が遠州の師であった「織部」が今の時代にいたとしたら、宮様の茶室をどう造ったのだろう?と頭に描いて、創作に当たったような気がしています。洋風茶室や色彩豊かな「織部焼き」の屋根瓦などグローバルな表現がそこにあるのです。
テラスのタイルの模様が大変気になっています。この建物は全て国産品でまかなわれているはずですが、どうもこのタイルだけは外国製のようです。屋根瓦や建物やテラスの腰まわりのタイルは、「池田泰山」と言う宮内庁御用達の陶芸家の作品のようですが、このタイルだけがどうも違うような気がしてならないのです。かなり年代の古い西欧のタイルと思われるのです。何かを意味しているような気がします。このテラスの製作時期の昭和7年には魯堂の子息がドイツ留学を終えて帰国しています。
ある人は、このタイルの模様を見てフリーメイソンのマークではないかと云います。ともかく「金」にまつわる屋敷である事は確かで、あながち否定出来ません。まだまだ調べる事だらけの屋敷です。
40歳位までは、寺にこもり(奈良・京都)禅の修業に精進していたと云われて居ります。特別な建築の学業をした事はなかったようですが、深く茶に精進し、茶人としての目で茶の美意識から割り出された感性での作品を生み出しています。大変奇異な建築作家なのです。利休や遠州に通ずるところが見受けられます。
魯堂の建築の特色の一つは、茶室様式を住宅建築に応用したことが挙げられます。住宅の繁雑な面を茶室様式を持って簡潔なものへと、それまでの建築様式を改めたのです。
それまでの東京では、文化・文政社会に始まった遊びの多い建築物が主流を占めていたのでした。ことさら構えが大きいだけか、技巧をこるだけの生彩の乏しいものばかりでした。
魯堂が数奇屋建築家として世に出るきっかけは、明治44年小田原市郊外の風祭に、石油で財を成した中野氏の別荘を完成させたのが発端でした。その頃、財界人の間で小田原に別荘を建てることが流行して居り、魯堂の建築が大変な評判をとったのでした。
大正2年には、貞明皇太后の大夫を勤めた杉孫七郎の命を受けて、同家の書院と茶室を完成させています。それが縁で杉氏より、三井財閥の大物益田鈍翁を紹介されたのです。鈍翁は、明治以降最大の茶人と云われていた人物です。その鈍翁が茶人としての魯堂に目をかけ、彼の後継者ともいうべき団琢磨や茶のジャーナリスト高橋箏庵といった三井系の茶人を魯堂に引き合わせました。
その後は彼らとの交わりを通じて高橋箏庵より、[魯堂は団家の普請奉行」とあだ名される位に,特に団琢磨とは終生切っても切れない付き合いとなったのでした。2人のお墓は隣り合わせとなっている程です。
魯堂は大正・昭和にかけての数寄者達より信頼され、益田鈍翁を始め原三渓・松永耳庵・高橋箏庵・根津青山等数多くの数寄者たちと深く交遊しています。こういった多くの数寄者たちより親しまれ、なくてはならぬ人物だったようです。
かなり多くの財界人の住宅や別荘・茶室・墓石まで手がけて居りますが、残念ながらほとんどが空襲で失って居ります。残されている作品として、東京護国寺の多宝塔と茶室、箱根強羅の白雲洞田舎家、米国ペンシルバニア州立博物館には高橋箏庵の茶室が移構されています。早稲田大学構内には小倉房造が寄贈した田舎家があります。その他にもお茶室が移築され残されていますが、木村屋敷のような大きな物は存在していません。
*東京広尾にある香林寺には、移築されていない魯堂の茶室が現存しています。
木村屋敷は、彼の最高傑作かもしれません。晩年の65から70歳くらいの間の一番脂の乗り切った時期の作品なのです。
団琢磨が命じて作らせたのです。それも秩父宮様の別荘(茶席)としてのものです。外国の賓客を茶事でもてなす為の、いわば迎賓館です。
魯堂は、大正14年に建設された団琢磨の仙石原(箱根)の別荘の設計を行っています。この建物は、一見西洋館です。外観はハーフテインバーの造作が見られ、木村屋敷と似た感覚です。
アメリカの大財閥モルガン商会(ロスチャイルド家傘下の企業)の総支配人一行をもてなす為に建設したと云われて居ります。戦後は、団琢磨の長男団伊能氏がホテルとしています。現在は取り壊されて、新築され小田急経営の箱根ハイランドホテルとなっています。
当ホテルのロビーには、昔の建物の写真が飾られて居り、団琢磨が魯堂に設計を依頼したことが記されて居ります。
「箱根ハイランドホテル」の呼び物は、団伊能氏がホテル開業時からの伝統のアフタヌーンテイです。団琢磨も「狸山」という雅号を持つ茶人です。子息の伊能氏もかなり茶会に出て居ります。英国式のアフタヌーンテイでもてなしたり、あるいは日本の「茶の湯」をアフタヌーンテイとして、「モルガン商会一行」を、もてなして喜ばれたのではないでしょうか。
秩父宮様は、大正14年5月にロンドンへ留学しています。昭和2年始めに、大正天皇崩御の為急ぎ帰国されておられます。英国留学中、一番の楽しみだったのが、貴族達に週末には彼らの山荘に招待され、アフタヌーンテイを楽しんだ事だった様子です。
宮様も当時は、20代前半でしたが、いずれ天皇の御名代としても諸外国からの賓客のホスト役を務めなければならない時が来る為、山荘の必要性を感じて居られた事と思われます。団琢磨と宮様とはご帰国後のパーテイか何かでお会いし、宮様より相談され、この地に団は山荘(宮様の為の)を作る決意をしたと思います。
団がこの地を選んだのには隠された理由があるのです。団は昭和2年に密かに山一つ越したところにある湯ヶ島の金鉱(持越鉱山)を買収していたのです。その金鉱の隣接地は広大な天領地でした。天領地の払い下げを計算していたのです。それで宮様の為の山荘(迎賓館)の建設を行った事と思うのです。
大正時代から国鉄では、昭和13年を目途に伊豆下田までの鉄道敷設計画をして居り、この鉄道が通れば東京より片道2時間半と言う距離になるのです。また。三島より湯ヶ島までの鉄道建設計画(昭和12年頃まで)もあったようです。湯ヶ島の信用金庫には、そのような資料が残されています。当時でも湯ヶ島から河津のこの地までは、車で小一時間でした。どちらを経由しても風光明媚な伊豆の地を楽しめる道中となります。1日から2日で、日本の美しい山や海の景色を味わえるピクニック的なコースでもあるのです。
なぜ、こんな辺境地を選んだのか?疑問でしたが、謎が解けました。天城山中の湯ヶ島は、良質の温泉場です。落合楼という大旅館がありますが、昭和8年から12年に掛けて建設されています。団琢磨に金鉱を売った鉱山主の足立三敏氏が25万円(当時の金額)を投資したと云われています。どうも木村屋敷の施工を終えた大工さん達が建築に携わっているようです。純和風旅館ですが、立派な建物の中に広い洋風サロンが設けられています。西洋人の来客を意識して建設されています。
この旅館に一泊し、木村屋敷でアフタヌーンテイを楽しみ、その日のうちに東京に戻れます。日本に短期滞在の賓客にとっては、京都に出かけなくても当屋敷で京都の風情を味わい、日本の山・海・里の風景を充分に楽しめる伊豆を巡れるのです。
当屋敷の庭は、京都の東山文化を持ち込んでいる事が解ります。晩秋の紅葉は見事で、訪れる人達は皆「まるで京都に居るようだ。」と言ってくれます。銀閣寺の義政公の茶の井(相君泉)や洗心の滝、そして庭の一番の高台には月見台もあります。月見台からは、竹林を流れ行く月明かりに照らされて輝く「織部焼きの屋根瓦」に銀閣寺の月見台から眺めた「都の夜の帳」を思い浮かべられるのです。
昼間は、高台から辺りを見下ろせば、豊かな田園風景がそこに広がっているのです。その借景は、修学院離宮を髣髴されます。そして正面に見える山並みは、まるで東山三十六峰を移してきたと云いたくなるのです。
庭の斜面には、緩やかに長く伸びた苑路が幾重にも造られて居り、路の両脇には、つつじやさつき・石楠花など初夏を彩る樹木が植え込まれ、美しい花畑を歩けるように作庭されていました。
万葉の歌が思い浮かんできます。
茜さす紫の行き しめ野行き 野守は見ずや 君が袖振る。
額田王の歌です。大海皇子(天武天皇)に送った歌です。
紫に 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 吾恋めやも。
大海皇子の返し歌です。
この庭園は、随所に歌が詠まれているものと感じています。奈良吉野の花園や、険しい吉野山の風情が裏山に迫っているのです。門をくぐると直ぐ目に付く「心字池」も志賀の大わだ(琵琶湖)だと思います。大宮人の舟待つ姿が眼に浮かんでくるのです。
仰木魯堂は桂離宮に強い憧れを持ち続けていたようです。小堀遠州を尊敬していたと思われます。彼は桂離宮を強く意識して、この屋敷を作り上げたと思います。ですから桂離宮と少しかけ離れて、茶の遊びのような(謎解き遊び)要素を加えているものと考えられます。
銀閣寺や修学院離宮を持ち込んでいる事も、しばらくすると見つけ出せます。まずは簡単な謎解き遊びからスタートさせ、そこから次の課題に進ませる仕掛けをしているのです。屋敷全体が、「茶の遊び」を楽しむように工夫が凝らされている物と思われます。勿論庭だけでなく、建物にもそれがいえるものと感じています。
洋風建物の1階の二つの洋間も「お茶室」です。食堂風の部屋は立礼席でしょう。正午の茶(アフタヌーンテイ)を行う為の部屋ですから、昼頃から明るくなるように西側に窓があります。午前中は薄暗く朝食には不向きです。
もう一つの部屋は、サロン風の造作です。茶の湯は長いので、途中「中立ち」と云ってちょっと一服、ひと休みします。そのための部屋だと思います。この部屋からは、テラス伝いに庭に出られます。このテラスも西向きです。普通テラスは、早朝から日当たりの良い東南側に作ります。アフタヌーンテイの為の造作ですから、午後からの日差しを計算しているのです。
宮様のお部屋は、2階の6帖と8帖の和室です。大変地味な感じのする部屋造りですが、柱やなげしは備州桧の最高級品、天井板は、樹齢数百年の杉の柾目板、床柱は京の北山杉の天然絞丸太、建具は木曽桧材等、全て一般には手の届かない材質の物ばかりです。ゆったりした廊下の天井は総網代造り、山荘の趣を持って居ります。簡素な感じに茶室を住居に用いれた魯堂の特色が見受けられます。
8帖が寝室で、6帖が神様を祭るところ、6帖に張り出されてついている2帖間はお着替えの間です。宮様が、茶事の支度の為、前日から一泊するだけの部屋です。簡素な造りになっているのはその為です。廊下を隔てた4帖半の部屋は、宮様の身の回りをお世話する女官(お付き)のものでしょう。
供の者達(茶事のスタッフ)の部屋は、4部屋で全て3帖の和室です。 超一流の茶事の料理人や、茶や生け花の家元クラスの茶人がスタッフですから、もう少し広くてそれなりの部屋つくりをしてよさそうなものですが、やはり禅の修行との考えから来るものと思います。つまり茶は、禅の修業の一つであり、スタッフは禅の修業の大切な「静的な工夫」すなわち座禅を組む場が必要なのです。
3帖間は最も狭い居室です。一人静かに座禅を行う場でもあるわけです。料理を造ったり、生け花をしたり、茶を点服したりする行為を「動的な工夫」と云い、この二つの修行があってこそ可となるのです。スタッフ達が宮様のために精神を統一し「最高の茶事」をするようにと造作されていることがわかります。この屋敷は禅の修業の場でもあるのです。
「五楽荘」と命名されていたのです。
純和風の建物は「式正の茶室」です。10帖間を鎖の間とし、玄関先の6帖間が寄付、続く4.5帖間に炉が切られています。4.5帖間の隣奥側に水屋があり、1,5帖台目畳が敷かれています。そこから5段降りて、長い廊下の一番奥に広い厨房があります。
階段下すぐに「雪隠」を設け、廊下を隔てた向かい側は2帖と3帖の控え室となっています。
10帖間の奥に板張り(寄木造り)の6帖間があります。立礼の間なのか、入側のある縁側からの来客用の寄付なのか?あるいは中立ちでちょっと一服する部屋なのか?それらを兼ねた部屋なのかもしれません。建物の主材は京の北山杉で、柱は「面皮」となっています。寸法は3寸5分位の細い材質のもので揃えています。この茶室を見た、どなたも「すごくシンプルで普通の家の和室のようだ。」と言います。ところが実際は4,5畳間の天井板は屋久杉(神代杉)だったり、全てにおいて最高級品質の木材が使われているのです。それをまったくと云って良い程感じさせないのです。この茶室こそ、小堀遠州が綺麗さびと表現した「古田織部流の茶室」ではないかと言う気がいたします。
魯堂が遠州の師であった「織部」が今の時代にいたとしたら、宮様の茶室をどう造ったのだろう?と頭に描いて、創作に当たったような気がしています。洋風茶室や色彩豊かな「織部焼き」の屋根瓦などグローバルな表現がそこにあるのです。
テラスのタイルの模様が大変気になっています。この建物は全て国産品でまかなわれているはずですが、どうもこのタイルだけは外国製のようです。屋根瓦や建物やテラスの腰まわりのタイルは、「池田泰山」と言う宮内庁御用達の陶芸家の作品のようですが、このタイルだけがどうも違うような気がしてならないのです。かなり年代の古い西欧のタイルと思われるのです。何かを意味しているような気がします。このテラスの製作時期の昭和7年には魯堂の子息がドイツ留学を終えて帰国しています。
ある人は、このタイルの模様を見てフリーメイソンのマークではないかと云います。ともかく「金」にまつわる屋敷である事は確かで、あながち否定出来ません。まだまだ調べる事だらけの屋敷です。










